子どもと言えども昨今は大忙し。塾やお稽古がびっしりで、大人顔負けの過密スケジュールの子も少なくないですね。我が家ではお稽古は一つくらい、塾も行っていませんが、それでも学校行事に子ども会、家族の用事やらで結構忙しくしています。

先日部活から帰ってきた長女の目はうつろで、食欲もなくなっていました。見れば妹たちも掛け持ちでスケジュールをこなし興奮気味。夫は残業続きで眉間にしわがよっていました。家族にSOSサインが出ていると感じた私は「明日は全員休養日にしよう。」そう提案しました。

長女は「病気でないのに部活は休めない」と言いましたが、その顔は病気も同じ。「疲れを取るのも立派な理由じゃないのかな。元気溌剌でいることが結局は人の役に立つよ。」という私の言葉をしばらくかみ締めてから「うん。そうする」と首を縦に振りました。妹たちにも予定はありましたが、姉とのやり取りを見ていて休むことに同意しました。すると次女の口から「ああ良かった~」と安堵の声が漏れてきました。

こうして翌日は久しぶりに家族そろって夫の作ったフレンチトーストのブランチをゆっくり楽しむことになりました。

休むと決めるのにも勇気がいります。さぼり性にならないか、無責任な人間にならないか、人に迷惑がかかったり、信用を失うのではないか・・・。もっと頑張っている人もいるのに、もっと何でもこなせる人もいるのに自分や我が子は情けないなどと、責任感や自責の念が襲ってきます。しかし、いつも「~しなければいけない」と自分を追い込めばひずみも出てきます。

こんな風に『休みたい』という気持ちが自分のわがままから出ているものなのか、体や心の悲鳴なのか、何度も自分を疑ってしまいます。

私が幼い時よく祖母が「一升マスは一升マス。こぼせばこぼれる」と言っていました。若い時はこの言葉は、自分の可能性をあきらめろと言っている様で嫌いでした。親となり、40も越えてきた今はこの言葉を味わい深く感じられるようになってきました。

あれもこれもやろうとするのは素晴らしいことです。頑張って物事を達成しようとするのも尊いことです。しかし、それは人間の傲慢さでもあるのかも知れない、それを表した言葉なのではないだろうか、そんな風に思えてきたのです。自分には自分に備わった身の程があります。それを受け入れられるようになることは、人としての成熟につながるのかもしれません。

為すべきことを喜々として行い、身の程を超えたことは素直に認める。そんな自分の一升マスに誇りを持った人間になりたいと思います。